主婦労働と好きな労働
身売りでない労働と考えると自分の好きなことをやる労働がそれである気がします。しかし、一方で主婦の労働を考えたとき、これは絶対に人間生活にとって不可欠な存在なのですが、これを嫌いなひとも数多くいる訳で、無条件に好きな仕事とはなりません。ここにある矛盾っていったいなんなのでしょうか。
以前、私は好きな仕事をするために社内転職をしたのですが、果たして仕事って楽しいものなのだろうか、辛いくて我慢するのがもしかしたら当たり前かもしれないと今は、感じています。
実は、仕事というのは、そのひとのカルマが色濃く反映するものかも知れません。
そう考えると、人間の原罪が労働のくびきを生んでいると考えることも出来るのではないでしょうか?
では、また。
現代経済の最悪の問題点
みなさん長い間留守にしまして恐縮でした。今日は掲題につき簡単に。
シュタイナーが述べている現代経済の問題の中で最悪なのは、以下であると私は考えています。
それは、「人間の労働をその時間で貨幣と交換する」です。
シュタイナーはこれを人身売買の名残と言っていますが、人間の現在の状況の悪化には、これが決定的と言ったら言い過ぎでしょうか?
私も会社員に成り立ての頃、自分を売ってお金を貰っているんだと話していたことがあります。
本来、労働の成果物に対して対価が支払われるべきともシュタイナーは言っていますが、昨今の不景気の中、ますます、人間の労働の尊厳は踏み躙られていると感じます。
さて、こんな状態を抜け出すためには我々は何をするべきなのでしょう。シュタイナーは世直し運動とは思いませんが、人間の尊厳は取り戻したと思うyam_sでした。
簡単ですが
では、また。
アルミ缶回収
さあ、今日から、経済のエポックに入りたいと思います。
最初は「アルミ缶回収」です。
これは、ある公園のホームレスのひとびとの話です。
ある公園のホームレスの元締めのひとは、ホームレスに新たに入ったひとにアルミ缶の回収を勧めます。アルミ缶は回収業者が買い取ってくれます。一個の値段はかなり低いのですが。これを、元締めは勧めるのです。
なぜ、勧めるのでしょうか、どうもこのようなことと私は理解しました。
「出来れば、社会更正して、公園を出て行けるならそれにこしたことはない。それには、労働を忘れ、毎日昼間から酒を飲む様になったら、もう望みが無くなってしまう。」という様なことのようです。
すずめやカラスは労働をしている訳ではないけれど、生きて行けます。人間はどうも労働なしには生きていけないくびきがあるようです。「ひとはパンのみにて生きるにあらず。」と荒れ野で悪魔に言って、悪魔に負けた、キリストの秘密がここにあると私は思っていあます。
このくびきを解く道を、今日から貨幣経済を通して考えて行きたいと思います。
では、また。
P.S.巻頭写真は近所の原っぱの野良猫さんです。この子は昔から(3年程前から)居る古株です。
修行生活と一般生活
先般、オカルティストとしてのシュタイナーで述べたように、シュタイナーは密議であった秘儀参入を時代に合わせて公にした訳で、以前には7日間の死とその再生ののちに参入した秘儀に、日常的な精神の延長線上に行う事を可能とする道を示したものです。よって、過去において7日間の死の後の再生などという、まったくの非日常をいくらこんにちに於いては日常的な道となったところで、これを日々の生活とするにはあまりにも特異です。
従って、修行の生活と一般の生活の区別は必要かと考えます。もちろんここで言う修行とは「人生は修行である。」などと言う意味でのものではなく秘儀参入の道たる修行のことです。(勿論、「人生は修行である。」と言う事も有りでしょうから、事上錬磨も良いのでは。私も一時王陽明に凝ってました。)
この2つ区別をカント的と言うについては、「いかにして・・・」の超感覚的認識を思考の延長線上にとらえるのではなく、感情の延長線上にとらえる多分に霊媒的な感性の産物のように思えます。これは先祖帰りと言わざるをえません。思考とは霊の足跡や死骸であったりする点もありますが、気付きや理解という現象に目を向けて見ると、そこには、インスピレーション、イマジネーション、インテュイションに繋がる糸口が確かに感じ取る事が出来るのではないでしょうか。
この思考こそ、現代人が基盤とするべきと考え、日がな一日霊媒的な夢の中で暮らすことではなく、明晰な理性の中で暮らすことが第一と考えます。
だからこそ、密議は現在の我々にはまだ日常の中での特異な時間として一般生活と区別されるべきと考えます。
みなさんは、どうお考えになりますでしょうか。
では、また。
カルマの受容 その2
ま。さんこんにちは。「自分のホ−ムグラウンドにいるような気はしなくもないかなぁ。」とはうらやましい限りです。
他人の幸福を願うとは、他者の中に目覚める、ひいては、周囲の中に目覚めるということでしょう。この限りに於いては、他人の不幸の上に自分の幸福が築かれることもないのでは。しかしながら私はまだ、周囲と自分の使命との間に齟齬を感じています。
時節がそのうち、訪れるとは思いますが、それは還暦くらになってからかと。ですので今はその準備の中に居るのかなと考えています。このブログもその一環かと。
この場を機会にしていろいろ勉強させて頂いています。みなさんありがとうございます。ということで、今後もよろしく願います。
では、また。