カルマの受容
カルマの受容
カルマはなんとか受容したいなと思います。でも、今日新聞で読んだ、単身赴任のお父さんに会いに東京に来ていた新小学1年生となろうとしていた子供がつないでいた手を母親から離した隙にホテルの回転扉に挟まれて母親とおばあちゃんの前で即死する、という様な記事を読むと、本当に全ての欲を無くし、人生に達観しなければカルマの受容の心構えなど出来ないと感じました。
しかし、カルマの受容だけでは、自由を持っている人間としては、まだ一歩踏み込みが足りないと感じます。受容だけではあまりに受け身だと思うのです。自由を持っている人間としては、もうすこし能動的な活動が必要ではないでしょうか。
カルマを受容した上で、そこで自らの自由を行使して自分がいったいそこでなにをするか。それが、自分の将来あるいは来世を形作っていくはずです。
初回ブログで述べた「自分の人生を信じる事」を出来る様になったら、それに付け加えて「自分の将来を形作るための行動が必要」となると考えます。
この行動の源は、自由の哲学で言うところの倫理的創造力、あるいは、「いかにして」の境界の大守護霊との出会い、あるいは、エーテル界に降臨しているキリストとの出会いにより得られるのではと思います。
いや、そんな難しく考えなくても、自分の中の良心の小さな声さえ聞き逃さなければいいのだと思うのです。
では、また。
幸福論
幸福とは、なんでしょう。人間は幸福に成る事が出来るのでしょうか。カルマから考えるとそんなに簡単なものではないと思います。
カルマは厳しいです。不幸なことを平気で起こします。その渦中にある当人には、とても「カルマの所為」とは言えない様な。
友がくれた、トルストイの「幸福論」では「他者の幸福を願うのが、自分の幸福の道」と書かれています。これは、シュタイナーというかキリスト唱える所の愛ではないでしょうか。
しかしながら、そんな生易しいものではないようです。本当に自分はどんな目に遇うか判りません。その覚悟が出来るか。これは、難しいことです。覚悟が無くても、カルマは襲って来ます。
これを考えたとき、修行をすると、守護天使が離れて行くので一体どうなるのだろうと恐く成ります。
でも、それが、当人のために、死と誕生の間に自分が自分に用意しているので、なんとも難しいものです。
では、また。
シュタイナーはシュタイナーで読み解く
シュタイナーを比較文学や比較文明論の様に他の思想と比較したり、哲学史の中に位置付けて論じたりとすることがあるのですが、私は、シュタイナーはシュタイナーで読み解くものと考えています。
シュタイナーには、書かれたものと、講演録を書物にしたものがあります。書かれたものは秘密文字で書かれています。秘密文字で書かれた本は思考によって読み解くしかありません。そのとき、他の思想との比較は邪魔にはなれ秘密文字解読に役に立つとは私には思えないのです。
ですので、「いかにして・・・」「神智学」「アカーシャ年代記」「神秘学概論」をみなさんには、繰り返し繰り返し読んで欲しいと考えています。そして、「自由の哲学」それを助けてくれる本だと思います。
幸い、高橋巌さんの訳ですが、「神秘学概論」「神智学」(違ったっけ)の2冊が文庫本(ちくま学芸文庫?)になっているので、通勤、通学時のお供として
頂きたいと思います。
では、また。
オカルティストとしてのシュタイナー
シュタイナーは様々な運動を興しました。教育、舞踊、音楽、農業、共同体、などなど。しかし、彼の本質を見誤ってはいけません。彼の本質は秘儀の公開者です。そして、カルマ論の紹介者。前者は本来、シュタイナーの師匠であった、シュレアーが行うカルマであったものを、シュレアーがやらなかったので、そのカルマをシュタイナーが引き継ぎました。そして、彼の本来の使命は後者でした。
シュタイナーは本質的にオカルティストであると私は考えます。そして、普遍的アントロポゾフィー協会は必ずしも現在の社会ですぐさま世直し運動を行っているわけではありません。
シュタイナーの興した運動は確かにシュタイナーを元としてはいますが、オカルティストとしてのシュタイナーや普遍的アントロポゾフィー協会とは、別の道ではないか私は考えます。
ですかた、運動と人智学を同一と考えるとき、運動を行って行く時通常の良識的判断が曇らされてしまう気がしてしょうがないのです。
みなさんは、どうお考えでしょうか?
では、また。