修行生活と一般生活

 先般、オカルティストとしてのシュタイナーで述べたように、シュタイナーは密議であった秘儀参入を時代に合わせて公にした訳で、以前には7日間の死とその再生ののちに参入した秘儀に、日常的な精神の延長線上に行う事を可能とする道を示したものです。よって、過去において7日間の死の後の再生などという、まったくの非日常をいくらこんにちに於いては日常的な道となったところで、これを日々の生活とするにはあまりにも特異です。
 従って、修行の生活と一般の生活の区別は必要かと考えます。もちろんここで言う修行とは「人生は修行である。」などと言う意味でのものではなく秘儀参入の道たる修行のことです。(勿論、「人生は修行である。」と言う事も有りでしょうから、事上錬磨も良いのでは。私も一時王陽明に凝ってました。)
 この2つ区別をカント的と言うについては、「いかにして・・・」の超感覚的認識を思考の延長線上にとらえるのではなく、感情の延長線上にとらえる多分に霊媒的な感性の産物のように思えます。これは先祖帰りと言わざるをえません。思考とは霊の足跡や死骸であったりする点もありますが、気付きや理解という現象に目を向けて見ると、そこには、インスピレーション、イマジネーション、インテュイションに繋がる糸口が確かに感じ取る事が出来るのではないでしょうか。 
 この思考こそ、現代人が基盤とするべきと考え、日がな一日霊媒的な夢の中で暮らすことではなく、明晰な理性の中で暮らすことが第一と考えます。
 だからこそ、密議は現在の我々にはまだ日常の中での特異な時間として一般生活と区別されるべきと考えます。

 みなさんは、どうお考えになりますでしょうか。

では、また。