作られる歌声

 前に音楽の「生」と「生」でない人工的なものについてお話しましたが、現在のCD製作現場では「生」の歌声は無くなってしまっているのです。ご存知の方もいらしゃるでしょうが、何度も歌って録音した音源の良い所取りで編集しCDは製作されてしまうのです。ですので、かの倉木麻衣が、口パクだの、別のひとが歌っているなどとひどいことを言われた事にも、こういった背景があるからでしょう。(しかし、彼女は紅白でみごとな歌声を披露してくれました。)また、伴奏も今ではほとんど楽器毎の別録りです。山下達郎が昔、伴奏や歌すべてを一回録りで作った曲があったのですが、今や遠い過去の夢の話でしょう。(山下達郎は、今は逆にシンセと多重録音でほぼ自分一人で曲を作っています。なので、1枚のアルバムを作るのに、ひとりでやる分には幾らでもこだわれるので、3年も4年もかかっていてファンとしては困っています。)

 ということで、今や歌声は完全に人工的に作られたものとなっているのです。でも、考えたら、先般話題とした映画の世界では編集はあたりまえですね。となると、編集された歌声もありなのかとも思うのですが。しかし、そこは話が微妙で、また紅白の話に戻りますが、去年の中島みゆきは、私は彼女のファンでCDを良く聞いていたのですが、テレビを通してでしたが、黒部ダムからの生中継には本当に感動しました。このひとは、こんなに歌がうまかったのだといまさらの様に仰天し、演奏会(「夜会」というのをやっているそうです。)に是非行って、生で聞かないとと感じたわけです。となると、歌はやはりそのひとの息づかいまで感じられる「生」なのかなとも思う訳です。

 映画、オペラ、CD、生歌と話はいろいろになりましたが、結論としてはメディアには勿論、そのそれぞれの特質があるでしょうが、そのメディアがなんであるかということよりも、大事なのはそのメディアでつくられたもの自体の中に何が込められいるかということなのではないでしょうか。まあ、なんか当たり前の結論になってしまいまって恐縮ですが。

 さて、シュタイナーでは、絵ならにじみ絵やちょっと別ジャンルかもしれないですがフォルメン、音楽ならペンタトニック、楽器ならクライアー、朗読なら言語造形、舞踊ならオイリュトミー、舞台なら神秘劇とすべて独自のものを持っています。とするとそのような表現様式が何故そうなったのかの人智学的意味があるわけで、では前述の一般的な映画、オペラ、CD、生歌はどう位置づけたら良いのか。シュタイナーじゃなきゃだめと言うつもりは毛頭ないのですが、なんでこうも既存のものと違う提案ばかりなのだろうかと思うわけです。一般的な映画、オペラ、CD、生歌にはホリスティックやホメオパシー医学に対する西洋医学の様な問題性が実はあるのかしらともフッと思ってしまいます。感情では一般的な映画、オペラ、CD、生歌に西洋医学や現代教育の様な問題を構造的に持っているとは感じないのですが、思考的にはよく理解出来ていません。商業主義に毒されている映画、オペラ、CD、生歌は勿論問題だと思っていますが。現代に商業主義と無縁ということも難しく。という意味ではシュタイナー芸術は商業主義と無縁かな。というかマイナーで商業ベースに乗らないだけ、なんてね。(^^;

 みなさんはどうお考えでしょうか?

では、また。